2011年8月28日日曜日

かつて、神戸へ病院見学に行きました…

  前回、I.N 先生のことについて少し書かせて頂きました。
それで思い出したのですが、今から31年前の8月下旬か9月上旬のことだったと思います。ちょうど、今ぐらいの時期だったことに間違いありません。

  私が理学療法を学び始めて2年目の夏休みでした。今度は関西地方の病院あるいはリハビリテーションセンターへ見学に行くことになりました。その時、I.N 先生が引率して下さったのでした。

  随分前のことなので、記憶が定かではありません。ただ、記憶しているのは私と当時同期だったSさんが交通手段(当時は参加学生は電車で移動するのが当たり前でした)の確認などを担当したと記憶しています。

 はっきりと時刻を憶えてはいませんが、午前3時頃に金沢駅に集合、出発したものでした(以前にも書きましたように、1年生の時には関東方面へ見学に行きましたが、その時も夜行列車でした)。

  これも、楽しかった夏休みの旅行のように記憶が残っています。少しずつ思い出すようにして追って記載していきたいと考えています。

 少しだけお時間下さい。思い出しながら書いていきます。今晩はこの辺りです…

2009年1月 JR金沢駅にて撮影
写真は文章の中にある列車とは関係ありません

2011年8月27日土曜日

恩師について

 最近、お世話になった恩師について思うことが度々あります。
それだけ、自分が年をとってきたことかと実感しています。また教員という立場になっているからでしょう。

  私は学生時代のことを振り返れば、「将来は教員になる」ということを全く考えていなかったかと思います。理由は簡単です。学生時代の成績が良くなかったからです。

 できの悪かった自分が後進の指導をするなんて本当に考えられなかったのです。
ただ卒業後、臨床の現場で仕事をしていた頃には半ば仕方なく実習生を指導することはありました。

 しかしながら、何かの縁があったのかもしれません。現在は「将来の理学療法士」を育てています。日々の講義等の中で学生の姿を見て、自分の学生時代を振り返りながら、「学生だった頃、随分と先生の言うことを聞かなかったものだなぁ…」と反省することがあります。

 本当に恥ずかしいことです。特に1年生になった頃にお世話になったN先生には深くお詫びを言いたい気持ちでです。現在、I.N 先生はある大学で教壇に立っておられるのですが、数年前に体調を崩されたことをかつての同級生から聞いています。

 できるだけ近いうちに、訪ねる機会をつくり、お詫び方々お会いしたいと考えています。
今晩も少し長くなりました…

 8月が終わろうとしています。またあわただしい日々が始まります。
かつての恩師の先生方をできるだけ忘れないように過ごしていきたいと思っています。


2010年11月  撮影
写真は文章と関係ありません




2011年8月23日火曜日

オープンキャンパス

 8月15日、本学でオープンキャンパスがありました。
今年は入試広報委員ということもあり、お盆の中ではありましたが微力ながらオープンキャンパスに参加しました。また在学生の学生さん達でご協力頂いた方々、本当にご苦労さまでした。改めて感謝致します。

 大変暑い中、たくさんの高校生あるいは親御さんが参加して下さいました。本当にありがとうございました。高校生の皆さんを見ていると、入学前に大学を訪問することやその大学の先生や在学生の先輩と接することができることを本当にうらやましく思いました。

 自分のことを振り返れば、高校生までは能登半島の先端に暮らしていたこともあり、周囲に大学というものが存在しませんでした。当然、直接大学の雰囲気に触れることができなかった思いがあります。

 ただ、全く無かったのかと言えば、そうでもありませんでした。それほど、近くではありませんでしたが、自宅から約20キロ離れたところに「金沢大学理学部付属臨海実験所(当時はこのような名称だったと記憶しています)」という機関がありました。

 小学5年生あるいは6年生だったかは忘れてしまいましたが、訪れる機会があったと記憶に残っています。その時は、海洋生物等の勉強目的だったのかもしれません。薬品臭が立ち込める実験所を少しばかり恐々と見学していたものと思います…

 先日、訪れて様々な体験をされた高校生の皆さんも、きっと将来思い出されることがあるかもしれません。その時、どのような記憶が残っていることでしょう…
 
 いい思い出として、将来まで残っていることを望んでいます。

2009年7月 撮影
オープンキャンパスにて
  

2011年8月13日土曜日

恩師のこと‐その2

 前回は、私が理学療法士になって初めて勤務した職場の園長先生の話しを少しだけさせて頂きました。 

 その続きです。
 N.T 先生は大正15年生まれの方でした。とても、そのような雰囲気がしない整形外科の先生でした。というのは、ひとことで言い切ることはできませんが、当時にしては、本当に腰の低いドクターでした。患者さんに対してはもちろん、私達のような年下のものに対してもでした。
 
 学生の時に習っていた時はもちろんでしたが、理学療法士として勤務して先生の下(もと)で仕事をさせて頂いていた時もでした。私達に対して、絶対に叱ったことが無かったと記憶しています。いつも、笑顔で接して下さっていました。本当に笑顔しか見たことが無かった先生でした。

 そんな魅力的な先生と「一緒に長く仕事をしたかった…」と、今も思っています…
実は、昭和62年7月初旬、先生は突然他界されたのでした。享年62歳でした。
 それまでは激しい臨床業務に携われる一方、長くに闘病生活も送っておられたのでした。
ですから、時折、私達に「大きな病気をしたことがあるか…?」って訊ねられたことがありました。

というのは、医療に従事するもの、あるいはこれから医療に関わる職業に就こうとするものにとっては「痛みを体験したことがないとわからないことがある」と確信を持っておられたのでした。

 ですから、「大きな病気をしたことがありません…」と答えようものならば、「まだまだ一人前にはなれないな…」というようなことを言っておられたと思います。

 N.T 先生が亡くなられる少し前から、私は体調が思わしくなく、K大学附属病院に検査入院をしていた時でした(私の身体の異変については、どのドクターよりも早く先生が一番先に気が付かれたのでした…)。

 その時は、消灯時間が過ぎた午後9時を回ったころに家内から「T先生亡くなられた…」と電話がありました。その時の光景をいまだに忘れることができません。自分の耳を疑ったのを記憶しています。

 一時より、お元気になられたようであり、私の検査入院に対しても何か言葉を掛けて下さったように思いますが、何を言われたのかは記憶に残っていません…
 
 ただ、残念というか、無念というか、めぐり合わせというか…
うまく言葉で表現できないのですが、お亡くなりになった当日の午後の早い時間に先生はK大学附属病院の救急部に運ばれておられたのでした。
 
 そのようなことを全く知らなかった私は入院病棟の方で、ノンビリと検査を受けていたことだったに違いありません。恩師が階下の救急部に運び込まれていたにもかかわらず…

 家内からT先生の亡くなられたことを聞いた後、
その晩、いつ眠りに着いたのかは全く記憶がありませんが、暑苦しい夏の一夜が過ぎていったことだったと思います。

 少し長くなってきました…

 もうすぐお盆です。恩師の N.T 先生はどこからか、笑いながら慣れない教員生活を送る私を見守ってくれていると思えて仕方がありません。

 私は、先生は亡くなられていない。先生が大切にしておられた「医療」の中で、先生の気持ちはまだ生き続けていると思っています。

 今晩はこのくらいにしておきます…

2011年8月10日水曜日

恩師のこと

 先日来、気になっていた知り合いの詩人の方から連絡があったので、約1ヶ月遅れで詩集出版の件を更新しておきました(実はブログの更新のこともあり、できるだけ早くに紹介したかったのですが…)。


 さて、以前より6月下旬から7月上旬にかけてというのは、自分にとって忘れられないことばかりです。「いまさら…」って思われる方がおられるかもしれませんが、6月30日は自分の誕生日でもあります(昨年は誕生日にかかわる思い出を書かせて頂きました)。

 今回は自分の誕生日ではなく、恩師の話です。
その方は、N.T 先生です(ご親族の了解を得ていませんので、いましばらくこのような表現をさせて頂きます)。

 私がその先生に最初に出会ったのが、昭和55年の4月だったと記憶しています。当時、理学療法を学び始めて約1年が経過しておりました。

 しかしながら、なかなか興味を持つことができなくて、少し悩んでいました。そのような時期に、N.T 先生の講義で出会いがありました。先生は専任の教員ではなく、非常勤の講師という形で講義をして頂きました。

 先生は整形外科医であり、市内にある肢体不自由児施設の園長先生をしておられました関係で、とてもお忙しい日々を送っておられたように記憶しております。

 記憶に残っている光景では、講義の当日には、学校の駐車場には先生が乗ってきておられた「ブルーバード」が停まっていました。そして、先生はいつも「先ほど、患者さんの診察が終わったところ…」っておっしゃっておられたように記憶しております。

 そうです。先生はいつも臨床業務の傍ら、私達に「小児整形外科学」を教授して下さっていたのです。講義は専任の先生方とは違い、学生にとってはとっても楽しかったと記憶しています。

 よく脱線されて、自分の青春時代のことを思い出して熱く語って下さったと思います。もちろん、学生が好むように男女の話なども織り交ぜながら、時には大学教授に対する不満も…さらに政治に関しても…ともかく、魅力的な先生でした。

 そんな先生との出会いがあり、その3年後に先生の下で理学療法士として勤務することになったのです。少し長くなりそうなので、本日はこのくらいにしておきます。


 
 

2011年8月5日金曜日

詩集出版記念パーティー

2011年7月
金沢市内にて
 先月初め、金沢へ帰省した折、少し前からの知り合いの詩人の K.Yさんが、第4冊目の詩集を出版され、その出版記念パーティーがありました。

 いつも、文章等を読ませて頂くたびに身が引き締まる思いが致します。自分自身は、毎日を無為に過ごしがちに送っているためかもしれません。
 
 彼の真摯な表現や生き方には本当に脱帽ということばぐらいしか、適切な言葉が出てきません。
 
 3月の震災から、当日でちょうど4カ月が過ぎてしまいました。この間、自分として何一つできていないことは痛切に実感しております。

 全く、毎日を無為に過ごしているかのような日々かと思っています。
ただ、決してこれでいいと思っているわけではありません。

 彼が第4冊目の詩集を出版するにあたり、第三作目以降は非常に大変だったことは、当日の彼の言葉あるいは詩集からよくわかりました。 

 出版物を世に出すということは容易ならないものであること教えて頂いたと思います。今後は彼を見習って、毎日を真摯に過ごしていこうと思っております。
 
 また大学の教員であることから、出版物を世に問うことの活動性を高めていくように過ごしたいと思っています。